昔見てたドラマを再度見たくて、中古DVDを探したら発見したので、買ってみました。『予備校ブギ』ってドラマです。
放映は1990年4月から7月までで、計12話です。
いやぁ、当時は高校生で、リアルで全然ドラマとか見てなかったんです。
『東京ラブストーリー』とかが鬼流行りしてた時代です。
予備校生って、暇ですよね?(笑)
で、再放送とか見てたんですよ。
で、予備校生になった僕は、その予備校生をドラマにしてるのなんて、そら見るよね?
いやぁ、懐かしいですねぇ。色々思い出しますねぇ。
駿台予備校の屋上で昼寝してたのとか、朝登校してすぐに『ゲーセン組』『茶店組』『パチンコ組』に分かれて分散していったのとか、いやぁ懐かしいっ!
もちろん、勉強もしてましたよ?← 当たり前か・・・。
あの頃の仲間はどうなったかなぁ。
当時は予備校生って、いっぱいいたんですよ。
本当に大学が狭き門で、いまでいうFランですら、合格できないような時代です。
Wikipediaに『私大バブル』って載ってるんですよ。
すごいですね。
ちょっと抽出しますね。(以下、Wikipedia引用)
『1990年代前半までの入試形態は、現在のように同一学科を受験する機会が複数回あるわけではなく、もっぱら学校推薦による受験と一般受験の2本立てで行われていたため、一般受験においては受験日が他大学と重複した場合は出願の時点でどちらかを選択せざるを得ない入試形態となっており、希望していた一方の大学の学部学科を受験する機会はこの時点でなくなる仕組みであった。1980年代後半から1990年代前半までの4年生大学(通信、夜学含む)への進学率は約2割(1990年当時、4年生大学への進学率は17.8%)であり、その数字からみてもわかるように入学定員枠は狭く、大学入試における1浪2浪の受験生は一般的であり、「入りたい大学より入れる大学」、「現役偶然、一浪当然、二浪平然、三浪で駄目なら短期大学または専門学校」、「国易私難」等々の言葉が流行るほど現役で合格することが難しい時代であった。当時の受験倍率は10倍程度なら普通であり、20倍を超える大学も珍しくない状況であった。このため1人の受験生が受験する大学は10校以上が一般的で、受験生の収容が追いつかず東京ドームを受験会場とする大学まで出現した。
このように受験生にとってあまりにも過酷な環境であったため、偏差値上位の高校でも浪人はもちろんのこと希望に反し専門学校に進学せざるを得ない者も数多くいた。従って、この時期に大学受験を突破した者は、どの大学であれ「大学生」という身分を手に入れた時点で「選ばれた者」として一定の質が担保された学力を有する者として認知されていた。または、短期大学から大学編入学を狙ったものも多かった。』
こんな感じ。
統計がでてるかもしれないですが、当時の『日東駒専』に合格した人は、現代の入試では、『MARCH』には合格できたはずで、関西でも、『関関同立』『産近甲龍』は、ちょっとレベチでした。
関西在住なので、この主要8私大がステータスだったんですよね。
なので、予備校のクラスも、「関関同立・産近甲龍コース」ってなってました。
そんな名前のクラス、予備校生ホイホイですよ。
その下のクラスは大学名じゃなく、「私立文系コース」とかだったかな?
うーん、記憶が曖昧です。
駿台予備校って、当時入学資格が必要だったんですよ。
試験あったっけ?学校推薦だったような気も・・・。
僕は「関関同立・産近甲龍コース」に入学しました。2クラス編成だったと記憶してます。2クラスっていっても、数百人いてましたからね?
入って、中学時代の友達と再会したりして、楽しかったですよ~。
私立の高校に行った友達が結構同じ予備校に来てて、その友達の友達とも仲良くなって、男子校ってこんなんかぁって、私立の高校が羨ましかったです。
因みに、上宮高校とか桃山学院高校とか大阪貿易学院高校とかが多かったかな。
特に桃山学院高校のやつらとはめちゃくちゃ仲良くなって、面白かったですし、頭も良かったです。ただ全員が大学に進学したわけでもなく、今でいうFランにしか合格できなかったやつもいてて、人生いろいろです。
あ、もちろん、同志社大学いったやつもいますし、MARCHいったやつもいますよ?
今でも覚えてるのが、どうしても甲南大学に入りたくて、そこだけしか受験しない猛者で、三浪して、それでも受からずに、専門学校へ行ったやつ。
まさに『現役偶然、一浪当然、二浪平然、三浪でダメで断念』ですね。
四浪以上は医学部受験生以外では見たことないです。
たまたま僕の周りにいなかっただけかもですが。
都市伝説もあって、駿台予備校だったので、駿河台大学に推薦あるんちゃう?とか噂になってましたからね。
そんな懐かしい気持ちで、『予備校ブギ』見ました。
一度ご覧になってみてください。(笑)